Observe

お金、モノ、人間の心とカラダ、自分自身、etc. 森羅万象を見つめる俯瞰的「観察日記」です。

「愛する心」と「慈悲の心」

「愛」と「慈悲」の違いについて語るととても長くなってしまうので


ここでは最近知ったことを簡単に綴ろうと思う




まずは「愛」


何かを愛すると 苦しみが生まれる


たとえば「死」 愛する人が死んだときの苦しみははかり知れない


たとえば「奪われる」 愛する人を誰かに奪われた場合 人は奪った相手を呪うこともある


「物」も同じだ 愛着のある何かを喪失すると悲しい 


そこに愛があると「苦しみ」が生まれる





次に「慈悲」


慈悲の「ひ」は「悲」


自分の「心」を「非ず」として 相手の「心」に「なってしまう」思い という定義





自分の心は自分の心として 相手の心を自分のものにしようとする   それが「愛」


自分の心と相手の心の区別をなくし 相手の心を生きようとする    それが「慈悲」




例えば恋愛において


もし 自分が愛する相手から 自分のことを愛せないと言われたら・・・


「愛する心」の場合であれば 嫉妬や自分の思い通りに行かない念などの様々な欲望が襲ってきて 身を切られるようなとてもとても苦しい思いに包まれる


「慈悲の心」の場合であれば 自分を愛してくれない相手の心をそのまま受け止める そこに嫉妬や欲望の念はおこらない





僕は「慈悲の心」を選びたい


しかしそれは簡単に選択できることではない 簡単に実行できることではない


気を付けていても エゴからの脱皮は簡単にできることではない




「愛」よりも遥かに上の世界の「慈悲」


何かを愛することは簡単にできたとしても 慈悲の心をもつことは簡単にはできない


だからこそ愛よりも慈悲の心が遥かに上の世界だと言える




誰かから不利益を被られたとしても その誰かを恨むのではなく 事実を受け入れる その誰かの心を生きる


誰かからいきなり殴られたといても 殴られたことを気にしなく 逆に気にしなくてスミマセンと言う

 
競争心は「欲望」がある故に生ずる心なので 競争心も持たない


ビジネスやスポーツの世界では考えられないことであろう


おいおい 何をそんな甘いことを言っているんだと言われてしまうだろう


しかしこの競争心を持つ対象を 「他人」から「自分」に置き換えるとどうだろうか


詰まるところ どんなに敵が多かろうと 最終的に戦う相手というのは 自分自身との戦いに他ならない


常に自分自身と戦っている人というのは


他人のことなんかは気にせずに


自分自身と戦っている


ふと周りを見渡すと 気付けば他人様よりも遥かに優秀な成績を収めていることだってあるのだ





少し話は逸れたが


穏やかな心で過ごせるように そして周りも穏やかに過ごせるように


僕は「慈悲の心」を持てる人間を目指し


日々 エゴからの脱皮を繰り返す