主語を「僕が・私が」にしてしまうと、
「主体」は「自我(=ego)」になってしまう。
主体が自我だとエゴエゴしてしまい、
怒りや苦しみから死ぬまで逃れられない。
「私がこんなにやってあげたのに、なんでありがとうって言わないの?」
とか、
そういった苦しみが生じるのは、
主体が自我でエゴエゴしてるから。
「悲劇のヒロインを演じている役者を自我だと思い込んで」しまっているから。。。
自我の内側に存する「真我」。
昔の人は「真我」のことを「神」と呼んだらしい。
真我が為すことは神の為すことと割り切ることができれば、
やりたくない仕事に遭遇したとしても、
それは「神への捧げ物なのだ」と割り切ることができる。
普段の生活や仕事してる中で理不尽さを感じてイライラしたら、
「神への捧げ物をし、神から授けられる通信簿の評価が上がる」と割り切る。
つまり真我を主体に自我を見つめる(自分を俯瞰する)ことができる。
例えば肉体が「痛い」と感じた場合、
それは「痛い」のではなく、
「この肉体が痛がっている」と俯瞰する。
そのように真我を主体に置くトレーニング、
それが「瞑想」。
瞑想は、
脳と心の使い方の「科学」なのだと学び、
心底その通りだと、
私のこの肉体は思っています。
「神」とか言ってても形而上学的なスピリチュアル的な宗教的なものではなく、
「科学」だと思って日々瞑想に取り組んでいます。
あぁ、エゴから遠ざかりたい。