Observe

お金、モノ、人間の心とカラダ、自分自身、etc. 森羅万象を見つめる俯瞰的「観察日記」です。

親 仮説

よく


親の顔が見てみたい


とか


親の教育が悪い



という言葉を聞く



同じ言葉であってもいろんな種類の「親の顔」があるわけだ



躾という仮面を被って「暴行」をしてしまう親



自分優先で子と充分にコミュニケーションをとらない親



「過保護」な親



この「過保護」も前記二つのパターンの親と同じカテゴリーだと考える



実の親子の関係だけの話では無い



社会組織においても言えることだ



愛がある故に過保護になってしまうのか



娘が息子が部下が愛しいから過保護になってしまうのか



もしこのように考えている人がいるのであれば



その人は危険性を持っている可能性が有る



過保護が愛なのか?



愛に関連付けると聞こえがいい



この「愛→過保護」の一連性に「自己核愛表現」という仮称を付ける



つまりこの場合の愛を捧げる方向性が己(発信者)に向けられている可能性は無いだろうか



つまり「自己愛」だ



「うちの子に限って・・・」



と発言する親がいるが



果たしてピントは「子」に向けられているのだろうか?



「親=自分」の失態を恥じたり隠したい気持ちもそこにあるのではないだろうか



子を信用できていなくても信用している感覚を持っている



子を信用してはならない状況においても信用してしまう



つまり 「ズレ」



「子を材料とした自己愛」に「浸って」いる現象



この現象に「過保護」という名称を付けても間違いは無いかと思われる



過保護に育った子は



大人になった際に人間社会という名の荒波を乗り越えて行けるのだろうか



荒波に遭遇した際



「どうやったら乗り越えられるか」



ではなく



そもそも人間は弱い生き物であると思うが



「誰かが守ってくれる」「早くだれか助けて」「誰も守ってくれない」



という発想を抱く人間になってしまわないだろうか



つまり



いざという時に「自力で前へでれる人間」か「引っ込む人間」か

一つ触れておくが 他人の力を借りて(感謝の気持ちを持って利用する)前へでれる人間は自力とする





かならずしも他人で身近に「守ってくれる存在」があるわけではない



窮地に追いやられた時



過保護に育って大人になった人間は



どちらの発想を先に抱くだろう・・・



「守って」の発想をしてしまう大人が窮地に追いやられ他人で身近に守ってくれる人がいない場合



この大人はどこに向かうだろうか



協調性は持てるだろうか



物心付く前から無条件で自分を守ってくれていた存在のところへ・・・



そこに向かってしまうのではないだろうか



それが悪いと言っている訳ではない



そこに向かわせるように育ててきた親の責任だ



この仕組みでの親は



おそらく子が自分を頼って向かってきてくれたことに対して



喜びという感情を抱くのだろう



それすなわち「自己愛」なのだ



社会組織においても同じだ



子育て=マネジメント



「過保護」は子の為になるのか?



これを読んでくれた人は考えて欲しい



果たして「過保護」における「愛」はどの方角に向かっているのかを