優等生ぶりたくない。
子供の頃、さぁ、これから勉強しよう!と思った矢先、
親から「勉強しなさい!」と言われイライラした経験、あるんじゃないでしょうか。
これはある意味では「優等生ぶっている」表れなのかも知れません。
親からだけでなく、他人から注意されるのが嫌なんですよね。
言われる前に勉強を始めなかった自分に対してイライラしてるケースがあると思うんです。
ほら、「優等生は他人から注意などされない人」だという「虚構」を自ら勝手に作り上げてしまっていますからね。
怒りの念ってのは、複数の怒りの念が重なると、心の中でぐちゃぐちゃになり、
何に対する怒りなのかを自分自身が見失ってしまうことが多々あると思います。
他人に対して抱いている怒り、
実はそれは自分自身に対する怒りだったりするのです。
僕はいまアラフォーですが、
同年代、20代、10代からの意見も、貴重な意見として聞き入れたい。
それは自分がこの先50代、60代、70代、その上の年齢になっても同じことです。
プロスポーツの世界では、
年下の選手が年上の選手に対して指示をしたり注意したりなんて当たり前のことですからね。
今まで自分が生きてきた道、
自分では認めたくなくとも、それが必ずしも正解だったとは限らない。
成長を妨げる要素を取り除き、バランスを整えるためには、
無理をしてでもそのように客観的に自分を見つめることも必要でしょう。
この人間社会、相手ありきの社会なのですから、相手によって行動を変えて当たり前。
同じ行動をとっても、その人に対しては正解でも、あの人に対しては正解じゃなかったりもします。
自分では正解だと思っていても、相手からしたら正解じゃないなんてことは、
自分が気付かぬところで発生していたりするものです。
進化。
時代は変化するのですから、
昔の時代では当たり前だったことでも、今の時代では当たり前じゃなかったりもします。
例えば「真夏でもネクタイにスーツ」や「部活では水飲んじゃダメ」など。
昔は常識だったことが今は柔軟化されている。
これは進化ですよね。
動植物は、環境に適応しながら進化してきたわけです。
環境への適応(進化)は、心の進化へも繋がるものだと思うのです。
こう述べてきたましたが、
だからと言って、自分の信念を捨て、他人の意見に従えという意味ではありません。
イエスかノーかみたいな、そんな極端な話じゃありません。
自分の信念を持ちながら、他人の意見に耳を傾ける「姿勢」が、
その人の視野を広くし、現代に相応しいバランスを整える薬となると思っています。
他人の意見を聞いた上で自分の信念を貫いたってよいわけですし、
他人の意見を採用することによって、自分がより高まることだってあると思います。
自分の信念が無い人だとは僕は思いません。
肝心要は、「傾聴する姿勢」が大事なのだと思います。
そしてもっと大事なことは、
年齢が上の人は下の人に対し、
年齢が下の人は上の人に対し、
「互いに尊敬し傾聴する姿勢」が大事なのだと思うのです。
このバランスが崩れると、人間関係は崩壊してしまうのでしょう。
「優等生」とはどんな人を指す言葉なのか。
自分と違う意見の持ち主に対して「傾聴」できる人、
これを「優等生」と呼んでみては如何でしょうか。
優等生「ぶる」のではなく、傾聴できる「優等生」になりたいものです。
人生、修行あるのみです。
仏陀のように生前に悟りを開いた人は別として、
人生死ぬまで未完成のパズル。
でもだから、人生楽しいんですよね。
幾つになっても成長できるチャンスがある。
それは大脳を得た全人類に与えられた楽しみでもあるわけです。
いまアラフォーの僕は、この先まだまだ沢山失敗すると思います。
不本意ながら誰かを傷付けてしまうかも知れません。
その際は猛反省し、
不謹慎ながらそれも糧と捉え、
不謹慎ながら楽しんで成長していきたいと思う次第です。