私のこのブログのタイトルは、
「Observe」です。
日本語にすると、
「観察する」です。
お金、モノ、人間の心とカラダ、自分自身、etc.
森羅万象を見つめる俯瞰的「観察日記」。
という位置づけで、2007年から本日に至るまでずぅ~っと続けています。
さて、
「誰」が観察をしているのか?
それは、
「私」ではないのです。
「私」=「自我 ego(エゴ)」です。
自我が働くと、欲が生じ、怒りが芽生えます。
私が、私が、私が、
と、
主体が「私」がである限り、
自我レベルの心の使い方しかできず、
恨み・辛み・妬み・嫉み・僻み・欲望・執着などの、
総じて「怒り」の心をコントロールできずに負けてしまいます。
それら怒りの感情から逃れるために、
観察者である主体は、
「自我」
ではなく、
「自我」のもっと内側にある、
「真我」です。
「真我」を主体=観察者にすることによって、
自分自身の「自我」そのものを「観察」するのです。
「自我」を観察することに慣れれば、
イライラ感が湧いてしまった時、
「あっ、自分、イライラしちゃってるな」
と観察することによって一拍でき、
つまり自分自身を俯瞰的に観察することができ、
感情的にならず、
常に、冷静な心の使い方ができるようになる。
その訓練が、
「瞑想」です。
昔の偉人は、
「真我」のことを、
「神」
と呼んだそうです。
日本国伝統の「神道」においても、
神は自分の心に宿るという考えがあり、
神棚には「鏡」を置いてますよね?
「鏡」には自分自身が映る。
すなわち、
あなたが神社や神棚に手を合わせ「神」に向き合う際、
それは自分自身の心に向き合っているわけです。
私は「神」である。
というとなんだか宗教っぽくて気味が悪いかも知れませんが笑、
神は、万人の心の中にいるのです。
よく、瞑想して「無の境地に至る」と聞きますが、
私にとっては「無」ってのは、
「無私」つまり、主体が「自我」ではなく、
「自我」の内側の「真我」の境地に至るという意味であると解釈します。
「瞑想」は、
脳の使い方、心の使い方の、「科学」です。
「宗教」ではなく、
「科学」です。
瞑想中は呼吸に集中し、
呼吸している自分を観察し、
雑念(妄想)が湧いてきたら、
「妄想が湧いてきた」と観察実況中継するのです。
主体は自我ではなく、真我ですから、
自我をありのまま観察するのです。
これからも、
「真我=神」を主体として生きていくために、
この観察ブログを続け、
「瞑想」も続けていきます。