傷口に塩を塗るような発言には注意が必要です。
例えば誰かに対して「可哀想だ」と感じた際、
その本人に面と向かって「可哀想に...」と発言してしまうのは、
傷口に塩を塗る発言になることがあります。
発言者は「そんなつもりで言ったんじゃない。心配したんだ。」というのですが、
肝心なのは「受け手がどう捉えるか」です。
人間関係って、相手ありきなんですから、受け手が決めて当たり前なんです。
少なくとも私は、「可哀想に...」と面と向かって言われるのはものすごく嫌です。
自分では自分を可哀想と思っていないからです。
自分のことを心配してくれているから可哀想と言ってくれているのかなと推測しますが、心配してくれてることへの感謝の気持ちよりも、なんかネガティブな気分に誘導されてしまい、ポジティブな気分を破壊されてしまう気持ちが勝ってしまうんです。だから私は「可哀想に...」という発言のことを「ネガティブ誘導発言」と呼んでいます。
で、そのようなロジックで感情が進むと、なんかマウンティングされている気持ちになってしまうんです。
発言者はマウンティングなんてしてるつもりは一切ない!!!!!
と大声で叫んだとしても、
決めるのは受け手なんですよ。
つもりはなくてもしてるんです。
意図せず傷つけてるんです。
よそ見運転して人を轢いてしまった際、轢くつもりはなかったと大声で叫んでも、
許されるわけないでしょ? 轢かれた人は怪我してるでしょ?
例えば想像してみて下さい。
あなたは子供が欲しくても欲しくても子供ができないとする。
子供ができないという現実を一通り悲しんだ上で悲しみを克服し、
自分の人生を幸せにするために気持ちを切り替えて前へ進んでいる。
そんな折、
子供を産んで幸せそうな人から、あなたが子供ができないということに対して、
「可哀想に...」
と面と向かって言われたと想像してみて下さい。
嫌だと思わない人もいるでしょう。
可哀想って思ってくれてありがとうと思う人もいるでしょう。
でも私は、反吐が出るくらいものすごく嫌です。
傷口に塩を塗られてる気分になるし、
マウンティングされている気分になってしまいます。
「可哀想に...と発言する者」対「嫌だと思わない。心配してくれてありがとうと思える受け手」この二人の人間関係はうまくいくことでしょう。
しかし
「可哀想にと発言する者」対「嫌だと思う受け手」この二人の人間関係はうまくいきません。それ以上の人間関係は続かず、そこで終わり。発言者が人間関係継続を望んだとしても継続は無理でしょう。
受け手がどう捉えるかが、人間関係構築、いや、人間関係円滑継続の上で大切なことなのです。
受け手の気持ちを思いやって尊重することが、
より良い人間関係の構築に繋がるのでははないでしょうか。
逆に、受け手が発言者の気持ちを思いやって尊重すればいいじゃんという意見もあるかもしれませんが、それをやっていると受け手はストレスが溜まり心身に支障をきたして破滅することでしょう。自動車事故であなたを轢いた奴から「お前がよければ轢かずに済んだのに」と言われてるのと同じです。
私はそう、思います。